到着
翌日の午後1時過ぎ、玄関にチャイムの音がなった。
「宅急便です。クリンネスクイーンさんからお荷物です」
「とうとう来たか・・・」勇太は荷物を受け取った。
実のところ、きのうは眠れなかった。
「洗剤を3ダースも抱えてどうするんだ」
「ひょっとしてだまされたんではないだろうか?」
「もしそうなら、お金を先に取るはずだ」
「いや、そうじゃない。きっとすぐに請求が来る」
「払わないとやくざを差し向けるかも知れない」
「いや、いや、そんなはずはない。そんな人の弱みをつけ込むようなことをしたら、あの会社自体の評判も、もうとっくに落ちているはずだ」
こんな考えが、浮かんでは消え、浮かんでは消え、そうこうしているうちに眠りについた頃は、東の空が白んでいた。
実際、3ダースの洗剤が積まれると、小さな部屋では存在感がある。
「オールマイティ・・・万能っていう意味か」
きのうサンプルでもらった1本を手にして、つぶやいた。
ラベルにいろんなことが書かれている。
「薄めて使って、どんな場所でもきれいにできるんだ・・・」力なくつぶやいた。
洗剤の販売なんて、想像もしなかった。
それ以前に販売の仕事なんて、今の今までやったこともない、セールマンというと、どちらかというとあまりいいイメージを持っていない。 勇太の辞書には、販売という言葉はなかった。
「あ~あ」どうするか。
睡眠のサイクルが乱れ、寝起きのせいか頭がまだボーっとしている。飲みかけのインスタントコーヒーを飲み干しながら、ため息をついた。散らかったゴミを少しずらし、ごろっと横になった。
そして一ノ瀬との面談の一部始終を思い出した。
「あのどん底のおかげで、とても大切なことに気づかされたからね」
この言葉が、ぐるぐる回っている。
どっちみちハローワークに行って職を探しても、あるいは派遣の仕事についても、また同じことの繰り返しだ。
「よし!だまされたつもりでやってみよう!」心を決めた。
・・・そう決めたものの誰に売っていいものか、とんと思いつかない。
また思いついたとしても、果たして、洗剤を買って下さい。と切り出せるものか?
それを思うと憂鬱になって来た。
ふと見ると、商品に同梱されている封筒があった。
「(株)クリンネスクイーン」と印刷された、さわやかな薄緑のA4サイズの封筒だ。
開けてみると、一枚の紙が入っていた。
「魔法の原石が輝く5カ条」
1、いつも笑顔でにこにこと
2、あいさつ元気にこちらから
3、話すことより、まず聞こう
4、愚痴と悪口、絶対禁物
5、常に唱えよ、私はついてる
「何だ。これは?それにこの『魔法の原石』ってどういう意味だよ?」
「洗剤とは一切関係ないじゃん」と、一瞥(いちべつ)した。
あの人、一体どういうつもりでこれを入れておいたんだろうと、ちらっと思ったが、そのまま机の引き出しにしまった。
それよりも、洗剤をどうやって捌(さば)くかで、頭がいっぱいだった。
そうこうしている内に、夜のバイトの時間になった。
身内頼り
一夜明けた。きのうはバイトから帰ったら、昼間いろいろ洗剤のことで頭を悩ませたせいか、バタンキューと寝てしまった。
そのおかげで目覚めはすっきりである。
時計を見ると10時だ。
実によく寝た。おとついの睡眠不足も解消したようだ。
オールマイティが山積みされているのが目に入る。
「もうあれこれ考えるのを止めて、とにかくあたって砕けろだ!そうだ。福島の母親に電話してみよう」
プルルルル、プルルルル、プルルルル、プルルルル、プルルルル・・・。
「はい。磯貝ですが」
よかった。いてくれて。勇太は、ほっと胸をなでおろした。
「もしもし勇太です」
「あっ、勇太。どうした?こんなに朝早く」
「かあさん、今日はパートじゃなかったの?」
「うん、今日は水曜日だから休み」
「あっ、そう。いてくれてよかった」
「どうしたの?何か用でもあるの?」
「うん。用ってことでもないんだけど・・・洗剤買わない?」
「何?急に。洗剤って?家庭で使うあの洗剤?」
「そう」
「どうして勇太が、そんな洗剤なんか売っているの?」
「人に頼まれたんだ」
「あっ、そう。それで、それいくらするの?」
「液状になっていて、1本3000円」
「えっ、随分高いね」
「高いけど、とてもいいらしいよ。3本くらい送るから、頼むよ」
「ちょっと待ってよ。いくら息子の頼みだからと言っても、そんな高い洗剤いらないわよ。第一、お父さんと2人暮らしで、お客さんも来ないし、今ある洗剤で十分よ」
「そんなこと言わないでさあ」
「それに勇太、今頃の時間というのに何しているの?ちゃんと就職しなさい!」
「また、それか」
「またじゃないでしょ、お父さんも随分心配しているわよ」
「わかった。わかったよ」
「ちっともわかってないじゃないの。お前だけがいつまでもブラブラしていて、そんな訳のわからないものを売ってなんかいないで!」
「うるさいな~、もういいよ」ガチャンと電話を切る。
電話をするんではなかった。
そんなこと言われなくても、ちゃんとした仕事に早く就きたいのは、本人自身だ。
その時、ここ最近見ている夢の中の言葉を思い出した。
「かけがえのない存在・・・かけがえのない存在・・・私たちの大切な赤ちゃん」
「ふん、かけがえのない存在・・・か、俺はかあさんにとって、きっとかけがえのない存在なんかじゃないな。俺は、本当に生まれてきて良かったのだろうか・・・」
小さい頃から、母親の過干渉には、へきへきしていた。とにかく過保護に育てられたような気がする。
何でもかんでも、母親が先回りしてやってしまうのだ。
そんな母親に育てられた自分は、身の回りのこともろくにできない。そんな育てられ方したから、こんな情けない自分になってしまったのだ。
よし、今度は妹だ。さんざん面倒みてやっていたから今度は、大丈夫だろう。気を取り直してダイヤルをする。
「もしもし、兄さんだけど、明美かい?」
「もしもし、勇太兄さん?」
「そう、元気そうだね」
「兄さんも」
「いや、そうでもないんだ」
「どうかしたの?」
「ううん、まあいいや」
今、仕事がないことを、さすが妹には言えなかった。
妹は母親としょっちゅう電話しているから、大体の状況は知っているだろう。
「ところでさあ、頼みがあるんだけど、洗剤、お前んところで使わない?」
「洗剤?どうして?」
「いい洗剤を送るから使ってみないかということ」
「嬉しい!ちょうどなくなっていたので、買いに行こうと思ってたの。子供も生まれたばかりだからタダでもらえるものなら、何でも嬉しいわ」
「違う、違う。買って欲しいんだ」
「兄さん、いつから洗剤屋さんになったの?」
「いや、そういうことではないんだ。とにかく買って欲しいんだ」
「いくらするの?」
「1本、3000円」
「え~っ、3000円!?そんなのいらない。いらない」
「そんなこと言うなよ」
「ホントにいらないんだってば」
「ダメ?」
「ダメなものはダメよ。ごめんね。子供がぐずりだしたから」
一方的に切られた。
「あ~あ、身内はダメだな。ふっ~と、ため息をついた。
「次は、弟の英二のところか」つぶやいた。
「でも今の時間帯だったら、恵さんが出るな」
弟のお嫁さんの顔が浮かんだ。
「いくら身内といっても、弟のお嫁さんか~。ちょっと言いづらいな。
電話のプッシュボタンを押す手が止まった。 しかしかけるしかない、と自分に言い聞かせた。
プルプル、プルプル。
「はい、磯貝です」
恵さんの、とても元気のいい声が聞こえた。
「あっ、磯貝です。勇太です」
「まあ、お兄さん、お久しぶりです!お元気ですか?英二さんなら今、会社ですよ」
「そんなのわかっている」心の中でつぶやいたが、そう言われたら次の言葉につまった。
「ええと~、英二じゃなくて、恵さんに用があるんです」
「えっ、私にですか?初めてですね」
「ちょっと警戒心を持ったな」と勇太は感じた。
おそらく英二の方から、勇太の現状を少しは聞いているに違いない。
「兄貴から、借金の申込みでもあるかも知れないが、その時は断ってくれ!」
そんなふうに、言い含めているに違いない・・・なんてくだらない邪推が、勇太の頭をもたげた。
生活力のない男は、みじめである。そのみじめさをもう何年、味わっているんだろう。先の見えないトンネル。
「実は、ちょっと知り合いに頼まれて、洗剤を売ることになったので、恵さんにお願いしようと思って・・・」
「お兄さん、洗剤の販売を始めたんですか?」
「いや、いや、そういう訳ではなく・・・」
「いずれにしても、英二さんに相談してみますわ。カタログか何かあります?」
おいおいそんなことまでいちいち旦那に相談するなよ。と内心思ったがそうも言えない。
「うん、あるのはあるけど、FAXしようか?」
「じゃあ、お願いします。今FAXに切り替えておきますから」と、電話が切れた。
アパートの電話もFAX兼用だ。
トゥルゥルゥッ、トゥルゥルゥッ、ピーッ。
用紙はスムーズに流れた。
しばらく、恵さんから返事が来ると待っていた。
シーンとした静けさが流れる。・・・来ない。
「きっと恵さん、忙しいんだ」
「そういゃ、英二と相談するって言ってたな。返事が来るまで気長に待つか」と心を切り替えた。
しかしこうして一人でアパートにいると、とても寂しい。誰か電話をくれる訳でもない。
まるで、世間から取り残されたような孤独感が襲ってくる。
こんな時、別れた綾のことを無性に思い出す。
往生際の悪いのが、男である。いつまでもぐずぐず引っ張っているのだ。
使い古したパソコンを開いてみた。これだけは、手放したくない。
なぜなら複数の登録している派遣会社からの連絡は、パソコンのメールでお願いしているからだ。しかしメールも全然入っていない。
ついつい、インターネットにのめり込んでいる自分がいた。常時接続だから通話料金の心配はない。
ニュースを検索してみた。暗い話ばかりだ。やたら目につく同世代の犯行や、自殺。一体、
どうなっているのか?
セックスレスカップルや、EDという話題が目に飛び込んで来た。何かわかるような気がする。
生活力のない男というのは、本当にダメになる。全てにわたって自信を失うのだ。
最近、女性にもとんと興味がない。意欲が全然湧かないのだ。学生時代、あれだけ女性を追っかけ回していた自分が、いったいどこへ行ってしまったのか、まるで遠い、遠い昔のことに思える。
仕方なしに、パソコンゲームをやることにした。
機械的な音が部屋中に響きわたる。
いつしか夕方になっていた。
「このままでいいのか?」自分で自分を責める声が聞こえる。
むなしさとやるせなさでいっぱいだ。「何のために生きているのか?」「一体、俺って生きる価値があるのか?」自暴自棄になる思いが、最近ちょくちょく脳裏をかすめる。
一歩間違えば、こわいことになる。それをギリギリのところで押しとどめているのだ。
夕方の5時半をちょっと回った頃であった。
弟の英二から電話があった。
「もしもし、英二です」
「ああ、待ってたぞ」
「兄さん、洗剤を売ってんだって?」
「いや、そうじゃなくて、いろいろ事情があってさ~」
どこか物を売っていることが、恥ずかしい行為であるような気がして、ついついごまかうとしている。
「悪いけど、恵に売りつけないでよ」
「おいおい、何もそんな言い方しなくてもいいじゃないか?」
ちょっとムッとして答えた。
そこに英二が火に油を注いだのである。
「兄さん、いい加減ちゃんとした仕事したらどうなんだよ」
兄弟だから遠慮がない。
「そんなのお前から言われる筋合いじゃない!!!」
「悪いけど、そんなだらしねえ兄貴がいるなんて恥ずかしいよ」
「うるせえ!この馬鹿野郎!」
ガャチャーン。思い切り受話器を投げつけるように置いた。
腹の虫が治まらない。
立ち上がって、ゴミ籠を思いっきり蹴飛ばした。バ~~~ン!
空を舞って、窓にあったった。幸い柔らかい籠だったので、窓ガラスが割れることはなかった。
そして、部屋に散らかっている週刊誌を思い切り引きちぎった。次から次へと引きちぎった。
そしてあたりに投げ散らした。
どのくらいたったであろうか。
電気もつけず、暗くなった部屋で、勇太はふてくされて大の字になっていた。
どこからともなく、豆腐を売る車のラッパの音が聞こえる。ぷー、ぷー、ぷー、ぷーーーー・・・・・・。いつしか眠りこんでいる勇太がいた。
ふっと起きあがった。時計を見る。「あっ、いけね。バイトの時間だ!」
「晩飯を食う時間がなくなった。どこかコンビニでおにぎりでも買うか?」
つぶやきながらも、急いで家を飛び出した。
見えないトンネル
荷物が届いて3日目。今日は早くから目が覚めた。
「とにかく1ヶ月でこれを全部売らねばならない」
期待していた身内が全滅だった。出鼻をくじかれた気持ちだ。
遠慮がない仲の親兄弟ですら、うまく行かないのに、全くの赤の他人にどうやって売るのか、かいもく見当がつかない。
しかたなしにテレビをつけてみる。
チャンネルを変えると、ちょうどテレビショッピングをやっていた。
ジャポネット・タケダの武田社長の甲高い声が聞こえる。
何と、洗剤の宣伝をやっているではないか!
今まで洗剤の宣伝なんて全く興味がなかったのに、食い入るように見る。
「ほ~ら、ごらんなさい。こんなにきれいになります!たった1本で、台所でもトイレでも、お風呂場でも、どんなところでも使えるんです!しかも天然植物成分でできていますから、体に無害。とっても安心して使えます。一度使うともう手放せませんよ」
「ふ~ん。うまくしゃべるな。すっかり感心した」
「しかも、この洗剤は、濃縮ですから薄めて使います。標準の汚れに換算すると、何とこの1本で、市販の洗剤の10本分。だから断然お得です。
今回メーカーのご好意により、消費税込み3本で12000円のところ、3本で9800円、3本で9800円です。
もちろん送料・代引き手数料はジャポネット負担となっおります」
そうか、この手があるな。多くの人の前で説明すればいいんだ。
学生時代も、クラブイベントを仕切ったことなどよくあった。
人前で話すことはまんざら苦手でもない。そう思うと勇気が湧いて来た。
「でも、実際に客集めだよな~、問題は」
自らが主体的に行動しようとすると、必ず問題が立ちはだかるということを、勇太は身を持って学習し始めていた。
「そうだ。岡本に頼もう!」
数日前、大鳥建設の現場の仕事をクビになった時、岡本が赤提灯で慰めてくれた。
その時、岡本が言っていた。
「何かあったら言ってくれ。力になるから」
持つべきものは友達だ。
さっそく岡本の携帯に電話した。
「よう。岡本。今、大丈夫か?」
「磯貝か。ちょうど今、手が空いたとこだ」
「おう」
「あれからどうした?音沙汰ないから気にしてたんだ」
「そりゃ、すまん」
「かと言って俺からかけるのも気が引けるし・・・」
気にかけてくれていると思うと、ちょっとジンと来た。
「実は、岡本に頼みがあるんだ」
一瞬、岡本の困ったような気配を感じた。
確かに「何かあったら言ってくれ、力になるから」と言ってはくれたが、あくまで社交辞令のつもりで言ったのに、実際こうして頼み事と切り出されるとちょっと引いたのだろう。
岡本自身だって派遣・派遣で食いつないでいるので、生活はギリギリだ。
岡本は、勇太の窮状はよく知っている。頼まれごとによっては、いつ共倒れになるかわからないということをよくわかっているのだ。
「何だ?」感情は隠そうとしても隠せない。
ぶっきらぼうな返事かえってきた。
「実は、事情があって洗剤を売らねばならないんだ」
いくら何でもワーキングプアの相談に行ったいきさつで、こうなったということは言えない。
男のプライドが邪魔をするのだ。
どんなに落ちぶれても、人に弱みだけは見せたくないのが男の性である。
「洗剤。で、どうしようと言うんだ」
思わぬ頼まれごとに、少々面食らっている」
「うん、現場の責任者に言って、昼休みだけでいいから事務所で、展示説明会をやらせてもらえないか頼んで欲しいんだ」
岡本には、洗剤を買ってももらいたかった。
しかし、身内に売り込んでことごとく失敗している。
直接、目の前の相手に商品を売り込むと、断られるというトラウマ(心の傷)がどうやらで
きてしまったようだ。
「そうか、そのくらいなら頼んでみるよ。ちょうど新しい現場の責任者も、あの冨永さんだからな」
「えっ、冨永さん!何だか、気が引けるな。あの日、動転してしまって冨永さんに随分失礼なことをしたからな」
人間冷静になると、興奮し、動転し切っていた自分を恥ずかしく思うのだ。
「大丈夫だ。冨永さん、そのことは、全然気にしていないみたいだから」
「そうだといいな。あの時、ポケットマネーから一万円をお前に渡して、磯貝を頼む!」と言って立ち去った時は、ほろっとしたよ。
「だろ。あの人、口は悪いが義理人情に厚いんだ。まあ親分肌っていうのか、ずっとお前のこと気にかけているよ。今朝も『磯貝どうしてる?』って聞かれたところだ。
「そうか。それは嬉しいな」
「とにかく頼んでみるよ。ちょっと待っててくれ。折り返し電話する!」
そう言って、岡本は電話を切った。
やっと、光明が差して来たようだ。
30分もしたであろうか、岡本から電話がかかってきた。
「悪い。待たせたな」
「うん。大丈夫だ」
「冨永さん、オッケーだ。さっそく『明日の昼休み、やってくれ』ってことになったぞ」
「そうかありがたい。小躍りしそうなほど、嬉しくなった」
「お前、車なかったな。今日の夕方にでも荷物、俺がアパートに取りに行って、あらかじめ、事務所に運んでおいてやるよ」
「うん。助かる」
「その時に、新しい現場の地図も渡すから、明日は直接、11時半くらいに来ればいい」
「よし、わかった。サンキュー」
もう今日は、それだけで有頂天になった。
現場には、3、40人の人が出入りしているはずだから、何本かは捌(さば)けるはずだ。皮算用を始めていた。
「ちょっとしゃべる練習をしておかないと」
さっきのジャポネット・タケダ、武田社長の語り口を思い出していた。
期待
岡本が持ってきてくれた地図を頼りに、新しい現場まで自転車で出かけた。
学生時代は、車を持っていたが、今は、その余裕はない。
自転車だって、粗大ゴミとして捨てていたものを拾って来たものである。
少々痛んでいるが、乗るには差し支えない。
ママチャリだが、前と後にカゴがあって、結構重宝している。
中高生なら「カッコ悪い」とか言って絶対乗らないが、もうそんな年齢でもない。
洗剤は、岡本に事前に運んでもらっているが、急遽、カタログに連絡先をマジックで入れた。
とりあえず100枚くらいは用意した。
一ノ瀬は、商品を3ダースと共に、ポスターやカタログも同封してくれていたのだ。
もし、その場で買ってくれなくても、このカタログを渡せば、後で注文が来るかも知れない、そう思った。こんな時、自転車のカゴは大変重宝する。
11時20分に事務所に入った。
誰もいない。すでに、そこには長机二つと椅子を用意してくれていた。
その横には、段ボールのまま、洗剤が積まれていた。
「ちゃんと用意してくれている。ありがたいな。と思って商品を机に並べようとしたら、後から声をかけられた」
「よう!磯貝。やっているじゃないか?」
「あっ、冨永さん。これはどうも。この前はすみません」ちょこっと頭を下げた。
照れもあって、キチンとあいさつできない。
「まあまあ、そのことはいいじゃないか?」
「ほんとにどうも」
「岡本から話は聞いたよ。机、こんなものでいいか?」
ドスのきいた声で、冨永は訪ねる。
「はい、すみません。いろいろ・・・」
「売れるといいな。とにかく何でもチャレンジだ」
「あっ、ハイ」
自分の意志で洗剤を売るんだと始めた訳ではないので、何となくその言葉にしっくりくる感じではなかったが、でもありがたかった」
「朝礼でもみんなに言っておいたから、まあ頑張れや」
「それは、どうも」社会人としては、ちょっとなってない受け答えである。
でもそんなことには頓着しない冨永だった。
「俺ちょっと用があって今から本社に行くから、何かあったら岡本に聞いてくれ!」と、言い残して冨永は去った。
12時を過ぎた頃からであろうか、男達が続々と弁当を食べに戻ってきた。仕出し弁当が事務所に届くのだ。
前の現場でも一緒だったもの達が、どやどやと集まってきた。
岡本が声をかけてくれたのである。
口々に「磯貝、元気か?」の後に、「お前、洗剤のセールスを始めたんだって?」と興味津々
聞いてくる。いちいち説明するのも面倒くさいので、適当に応対した。
「悪いけど、洗剤の説明聞いてくれる?」
「いいよ。洗剤なんて」
「俺、興味ないよ」
「カタログ見れば、わかるよ」
こんな返事ばかりだ。まさに出鼻をくじかれた感じだ。
顔見知りの連中が行った後、知らない作業員の男達が、入れ替わり、立ち替わり、事務所を訪れる。
「洗剤、いかがですか?今から説明させてください!」
そう声をかけても、のれんに手押し。中には、寄ってきて、洗剤を手に取るものもいるが、
結局カタログを持っていくだけだ。
最近、建築現場にも女性の進出がめざましい。作業服に身をまとった女性が3人、興味を示したが、値段を教えると、「まあ、高~い!」と言って、その場から離れてしまった。
昼休みということだったが、結局2時半まで粘った。
しかし、完敗だった。帰り支度を整えて、また岡本に連絡した。すぐに現れた。
「一本も売れなかったよ」
「だよな。販売って難しいよな。俺なんか販売なんて最初からできないと諦めている」
同情を含んだ顔で、岡本が気の毒そうに、乱れた髪を手でいじりながら言った。
俺だってそうだ。今だってそうだ。仕方なしにやっているんだ・・・と言いたかった。
「じゃあ、帰るから」
「うん。荷物今日の帰りにでも、アパートに運んでやるから」
「すまんな。恩にきるよ」
「岡本、一本買ってくれよ」ここまで言葉が出かかったが、言えなかった。
いろいろ親切にしてくれる岡本に嫌われたくなかったからだ。
思案のしどころ
久しぶりに銭湯に行った。
これから夜のバイトがあるにもかかわらずだ。
とにかく、お湯につかってゆったりしたかったのだ。お湯につかりながらいろいろ考えた。
先ほどの展示説明会で、全然売れなかったショックは大きい。しかし、お風呂にゆっくりつかっていると、なんだか癒されるのだ。
「さて、どうしたものやら」とその時、ひらめいた。
「そうだ。俺、ビル掃除のバイトに行っているんだ」
「どうして気づかなかったんだ。ビル清掃は洗剤をいっぱい使っているじゃないか」
そう思うと、パアッと視界が開けたようになる。
「今日は、水曜日か。ちょうどいい。責任者の青山さんも一緒に作業に入る日だ。青山さんに話してみようっと!」
急いで風呂からあがり、いったんアパートに帰った。
夜、10時。
ビルの清掃作業が終わって、ロッカーで責任者の青山を待った。
5分と待たず、やってきた。
「あのう、青山さん。お願いがあるんですが」
「何?」見るからに人がよさそうな青山が聞いた。
「俺、人から頼まれて、この洗剤を販売することになったんです。会社の方に言って買ってくれませんか?」
目上の人に向かって自分のことを「俺」っていうのも、失礼な話であるが、勇太は正規社員に一度もなったことがないのだ。教育を受けていないのである。
「どこの会社のもの?」
老眼なのだろうか?メガネを額にすらしながら、洗剤のシールを見る青山。
「クリンネスクイーン?何だ、うちで使っているやつだ」つぶやくように言った。
「ええっ、そうなんですか?」
「うん。ここの会社の製品はよくてね。洗浄力が抜群で、体にも無害だから、作業員も喜んでいるよ」
「へ~え、そうなんですか」なんか、また嫌な予感。
「でもうちのは業務用だね。こんな小さなボトルじゃあ、間に合わないからな~」疲れ出ているのか、間延びした声で青山が答えた。
道理で、会社でこのボトルを見たことがなかった。大きな缶だったからだ。
しかし今の今まで、どこの会社の洗剤なのか、興味も示さなかった。
「ということで、お疲れさん」
青山は言い残すと、とっとと帰ってしまった」
「やっぱりダメか」
一縷(いちる)の望みを絶たれた。
チラシ
寝起きが悪かった。
「洗剤を売り始めても、ろくなことはない」
そう思った。散々な目にあっていると思った。人は、なんて冷たいんだろうとも思った。
もう朝の9時過ぎになるのに、ここ数日のことを、毛布の中で反芻している。
「なんで1本も売れないんだ」
「洗剤なんてどこでも売っているもんな」
「それに高すぎるよ」
売れない理由をいろいろ探し始めている。
空はどんよりしていて憂鬱な気分に拍車をかける。
ますます自信を失っていく。
インスタントコーヒーを飲み、少しは目が覚めた。
朝ご飯は、ほとんど食べない。いけないとわかっていても、2時、3時まで夜更かしし、夜食を食べたりするから、あまり食欲が湧かない。
特に、夜のビル清掃の仕事の後は、どうしてもお腹がすく。
きのうはコンビニ弁当を平らげてしまった。「こんな食生活でいいのか」と、この年になると考える。
フリーター仲間で体調を壊す者を何人か見ている。やはり食事がいいかげんな奴が多いような気がする。勇太もここ数年、よく風邪を引く。
「あ~あ、結婚したいな」、「何の人生設計も考えなかったなあ」つくづく、自分の過ごして来た日々を後悔しているのだ。
「とにかく何とかしなければ・・・あっ、そうだ。カタログをまけばいいんだ」
昔、各家庭へのチラシ配りのバイトをしたことがある。これなら、断られることもない。
一ノ瀬が、商品と共に、入れてくれていたカタログを近隣にまくことにした。
都合のいいことに、建設現場の展示説明会用として、きのう自分の電話番号を、手書きで入れていることを思い出した。
「種蒔きだ」・・・そんな言葉が頭をよぎった。
カタログ配りは、ものの2時間とかからなかった。お昼は近所の定食屋ですませた。
自分でおかずを選べるのがいい。でも今の窮状では、財布の中身との相談だ。
お昼を食べ、部屋に戻って横になると、急に眠くなった。
「一体、今何時なんだろう?」
時計を見た。2時半を過ぎている。30分ほど寝てしまったようだ。
夜のバイトにはまだ時間がある。
「そうか。いちかばちか、洗剤を持って隣近所を回ってみよう!」と思った。
さすが、アパートはみんな独身だったので、誰もいない。
少し離れたところに、一戸建ての家が並んでいる。さっき、ここにもカタログを播こうとしたが、あいにくストックがなくなってあきらめたところだ。
ピンポ~ン。
「こんにちは。洗剤を販売しているものですが」
「結構です」
ガチャン。しょっぱなから、見事に拒絶された。幸先の悪いスタートである。
「こんなことで負けてたまるか」
自分で自分を励まし、自転車を引っ張りながら、一軒ずつ訪ね歩く勇太の姿がそこにはあった。
失意のどん底
その日は、雨だった。朝からシトシト、シトシト降っている。
一ノ瀬から、洗剤を預かってもう3週間になる。
1本も売れない。
何でこんなことをやっているのかと思うと情けなくなる。
しかし、ここまで来た以上、男の意地もある。だけど、後1週間でノルマを達成するのはきつい。
このまま売れないまま、一ノ瀬に会ったとしたら、何も教えてもらえないかも知れない。そうなると、働き損のくたびれ儲けだ。
もしそうだったら、ハローワークに毎日通った方がよかったかも知れない。
大鳥建設の建築現場の後かたづけ作業の最後の給料が、25日に入ったから、何とか今月は食いつないでいけそうだ。
しかし、まさに風前の灯火。人生真っ暗、どうしていいのか、さっぱりわからない。
雨がその憂鬱さをさらに増幅する。いろいろやってみた。しかし万策尽きた感じである。
昔の遊び仲間にも、かたっぱしから電話をかけてみた。勇太の過去の栄光を知っているだけに、好奇心いっぱいで話は聞いてくれるが、誰も洗剤を買おうともしない。
むしろ、落ちぶれた勇太に対して、ある種の同情と優越感を誰もが持つのだ。口には出さないけれど、そう勇太には感じる。
さすが、学生時代に付き合っていた複数の彼女達には、声をかけられなかった。こんなぶざまな姿は見せたくなかったのである。それに、みんな結婚して家庭を持っているだろう。
「今さら家庭を崩壊させるような、誤解を招くようなことをしたくない」こうつぶやいた。
しかし、これも勇太の買いかぶりに過ぎない。こんな状態では、誰も相手にしてくれないというのが、正しい現状認識だ。
そんな意味からも、過去の自分を何も知らない人に声をかける方がよほど気楽だ。
しかし、一軒一軒訪ね歩いてもほとんど留守か、いてもインターフォン越しに断られる。
まだ玄関に出てくれるところはいい方だ。何にもしゃべらずにガシャンと切られることも何度かあった。
家の前で、出てくる主婦に声をかけてみたこともあるが、白い目で見られる。
うさんくさい物売りが来たという目つきだ。ほとんどの人が、話をろくに聞こうともしない。
一度は、ストーカーに間違えられて警察に通報されたこともある。
チラシを播いたのも全く効果なしだ。全然電話も来ない。
「あ~あ、どうしようかな~」ため息をついて、途方にくれる。
その時、電話がなった。急いで受話器を取った。
「はい、磯貝です」
「おう、元気か?」
「あの~、誰?」
「俺だ。一ノ瀬だ」
「あっ、これはどうも」
「どうだ。具合は?」単刀直入に聞かれたので、返答に困った。
「ええ、まあ」
「気のない返事からすると、まだ1本も売れてないな?」
「ええ、と答える自分がみじめであった」
「そんなことではないかと思った」
全てをお見通しだ。
「明日の午前中、事務所に来ないか。話したいことがある」
ちょうど悩んでいた時だけに、いろいろ聞けるかも知れない。
二つ返事でオーケーした。
社訓
今回は、先に部屋に通された。
毎日狭いアパート暮らしだから、ここから見る景色は、まさに目を覚まされるようだ。
「こんなところで毎日仕事ができたらいいな」
内心思った。しかし、あまりに自分の今の生活とのへだたりが大きい。
前回は、緊張の余りあまり部屋のことなど覚えていなかった。
一ノ瀬の豪華な社長用デスクの後に、額装されている立派な書が目に入った。
「そうじはこころのそうじである。こころをきれいにすれば道は開ける」
字面(じづら)の意味は、もちろん小学生でもわかるが、その意味するところはまだ、勇太
にはわからなかった。
何となく宗教っぽくてうさん臭い。これだけ科学が発達した世の中で、時代錯誤も甚だしい、そんな気がした。
でもなぜか印象に強く残った。
「これがこの会社の社訓なんだ。そうか、この会社は洗剤会社なんだもんな。だから掃除なんだ」
妙に納得したところへ、「お待たせ!」と、一ノ瀬が、快活な声で入ってきた。
ハツラツとして、とても50歳台後半とは思えない。
しかし、それもつかの間、
「ちょっと悪いけど、急用ができた。出かけなければならないので、出直してくれ。すまんな」と、慌ただしく一ノ瀬は部屋を出で行ってしまった。
わざわざ人を呼びつけておいて、随分失礼な話だと思った。
どうやったら、洗剤が売れるかという秘伝を授けてくれると思っていたので、ガッカリした。
何か釈然としない気持ちでビルを後にした。
新宿西口まで続く、歩く歩道に乗っている勇太の後姿は、どこか元気がなかった。
掃除
お昼は、新宿駅にある立ち食いそばですました。
そのままアパートに帰るのもわびしいので、インターネットカフェに寄ってみた。
似たような年格好した連中が、たむろしている。ゲームにチャレンジした。しかし、余り乗らない。1時間ほどで、草々に引きあげることにした。
それにしても新宿は、人が多い。どこからともなくあふれだして来るという感じだ。
「この中には、俺と同じようにワーキングプアの人達もたくさんいるに違いない」
さっきのインターネットカフェにいた連中はそうだろう。
そう思ったら、少しは気が楽になった。
他に行くあてもないから、そのままアパートへ帰った。
今日の夜のビル掃除は、休みだ。
なぜか一ノ瀬の部屋にかかっていた
「そうじはこころのそうじである。こころをきれいにすれば道は開ける」
という言葉が、頭の隅から離れない。
「掃除か・・・」
そう言えば、この部屋の掃除らしい掃除は、ほとんどしていない。その勇太がビル掃除の仕事をしているのだから、笑い話にもならない。
振り返ってみれば、子供の頃から、あまり整理整頓ができる子供ではなかった。
それでも、母親はうるさく言わなかった。もっと厳しくしつけてもらえば、こんなにだらしなくならなかったに違いない。
とにかく、甘やかされたのが諸悪の原因だ。などと、親のせいにする自分がいた。
「そうじはこころのそうじである。こころをきれいにすれば道は開ける」
もう一度、この言葉を反芻してみた。
「よし、久しぶりに部屋をきれいにしよう!」
そう思ったら、早かった。
「そうだ!どうせならこの洗剤の使い勝手も試してみよう」
分別用のゴミ袋は買いだめしていたので、そこにゴミをどんどん投げ込んでいった。
4畳半一間だから、そう時間もかからずにみるみるきれいになっていった。
机の上もかたづけてきれいに雑巾でふいた。
畳も掃除機をかけた後、雑巾掛けもした。
さっぱりした。
そして、小さな流しの掃除にも取りかかった。男所帯の流し台は、そうとう汚かった。ゴミもカビもサビも何でもありだ。
さすが、オールマイティの威力は素晴らしかった。10倍に薄めて使ったにも係わらず、どんどんきれいになる。30分ほどかけて、ピカピカにした。蛇口もまるで新品のようだ。
「なんてすごいんだろう」
その商品のすごさに今さらながら驚いた。
「いっそのこと、窓もきれいにするか」
これも、あっと言う間にきれいになった」
入口の扉も、敷居も鴨居も徹底的にきれいにした。まるで、今までの部屋とは、大違いである。
終わったのは、夕方の5時近くであった。
そして、久しぶりに銭湯に行った。とても気持ちよかった。身も心も洗われた気持ちである。
一番星を見ながら、さっぱりした気持ちを味わいながら家に帰る。湯上がりの気分は最高だった。
「そうじはこころのそうじである。こころをきれいにすれば道は開ける」
確かにそうかも知れない。
その夜は、この言葉をかみしめながら、久しぶりに気持ちよく眠りについた。
夜空の星は、勇太を守っているかのようであった。
奇跡
翌日は、気持ちよく目覚めた。
掃除の行き届いた部屋は、とても気持ちがよかった。
そう言えば、綾と付き合っていた頃、時々来て掃除をしてくれていた。今頃、何をしているかな?別れても、まだ忘れられない。
それにしても、こんなにピカピカの流しは初めてだ。顔を洗いながら、感心した。
「これならオールマイティ、売れるはずだ」と納得した。
しかしそうはいうものの、散々販売に失敗しているので売る勇気が出ない。
すぐには行動に移せない自分がいた。
「そうだ。共同トイレを掃除してみよう!」
今まで、思いも寄らなかった考えが湧いた。
その裏には、
「そうじはこころのそうじである。こころをきれいにすれば道は開ける」
この言葉の後半の部分に、何かご利益を感じたからだ。
「何か運が好転すればいいな。そんな打算も含んでの行為だった」
しかし、やり始めると、掃除自体が楽しくなってきたから不思議だ。
しかも人が嫌がるトイレ掃除だ。
自分の部屋にある自分専用のトイレならまだしも、共同トイレである。昔から公共トイレは汚いと相場が決まっている。
それにしても、最近電車や地下鉄のトイレも随分きれいになったものだ。時々、掃除をするおばさんを見かけるが、そういう人達のおかげできれいに使わせてもらっているのだ。
トイレ掃除をしながら感謝の念が湧いてきた。
すると不思議なことに、気持ちがとてもよくなるのだ。つまり、気分上々になってくる。
「誰に頼まれたのではない。率先してやる仕事って、こんなに気持ちがいいものなんだ」
勇太は無我夢中で掃除をしているうちに、今までに感じたことのない充実感を味わった。
特に、汚れた便器を一生懸命磨いてきれいにしている時は、まさに心が洗われるという感じである。
「果たして今まで、俺はこんなに心を込めて仕事をやってきただろうか?」
勇太は掃除をしながら、今までの自分の仕事ぶりをじっくりと振り返った。
そう言えば、数日前、大鳥建設の建築現場の事務所でクビを言い渡される時、現場責任者の冨永がこんなことを言ったのを思い出した。
「そこまで聞くんだったら、本当の理由を教えてやろうか?お前の仕事ぶりよ!」
そう言われた時はカッとなってしまったが、今から考えると、給料のためしぶしぶと適当に仕事をやってきたような気がする。今までの仕事ぶりは感心できるものではなかったと思った。
心がこもっていないのだ。
よく、上司からも注意を受けたことがある。しかし、そんな時は「うざいな!」と舌打ちしながら、反発したものである。
いろんな仕事をやってきたが、どんな気持ちで仕事に取り組んで来たか、掃除をしながら、
いろんなことが蘇ってくる。
いつも、「仕事が楽で、給料がよくて、自分の都合で休めて、しかも責任のない仕事はないかな?」と、職を探していたような気がする。
ここ数日、自分で洗剤の販売をやってみて、お金を稼ぐことがどれだけ大変なことかよくわかった。
「もし俺が雇い主で、誰かを雇うとすれば、今までの俺なら雇わないな・・・」
勇太は、つぶやいた。
そして、いつしか「何で自分だけがこんな目に合うのか」という被害者意識が消え、自分自身のことを客観的に見つめていた。そこには、便器を磨く勇太の姿があった。
男女兼用の便器が3つ並んでいる共同トイレの全てを掃除した。
「さてと、これできれいになった」
気分がよくなったところで、洗剤を売りに行こうかと思ったが、まだその勇気が出ない。
「そうだ。ゴミ置き場もきれいに片付けよう!」
分別したゴミを、ゴミ置き場に捨てに行った時、随分散らかっているなということを思い出したからだ。
連帯責任、無責任という言葉があるが、大体アパートのような集合住宅のゴミ置き場は、散らかっている。きちんとしている人が大半だが、中には不届きな者もいる。分別収拾の日が決まっているに係わらす、身勝手に捨てていくのだ。実は、今までの勇太がそうだった。
粗大ゴミをいったん外に出すか。自転車、ストーブ、ラジカセ、そして扇風機などを引っ張り出しいったん道路に並べた。ゴミ袋も全部出すか。いったんほうきできれいに掃こうと思って、作業を始めた。
「おい、あんた何をしてるんだ?」
後から、老婆の声で呼び止められた。
びっくりして振り返ると、
「こら、ドロボー!」
思わぬ言葉を浴びせられた。
最近、世界的な資源不足で、ゴミ置き場からいろんなものを盗むドロボーが増えている。
どうやらそれと間違えられたようだ。
「違いますよ。違いますよ。俺、このアパートの住民ですよ」
一生懸命に勇太は説明した。
「じゃあ、あんた、何号室の誰だい」
「301号室の磯貝勇太です」
「い・そ・が・い?・・・そうだね。確か磯貝さんだね。301は」
見覚えのある名前に、老婆は笑顔を浮かべた。
「そうか、磯貝さんね。私、大家の市川」
市川絹代、年は67、8歳だろう。
絹代は、少し警戒感を解いて、語気を落として言った。
「あ、これはどうも」
ずっと家賃は、銀行引き落としで払っているので、大家に会ったこともなかった。
まして、引っ越しのあいさつにも行ってなかった。
そんなことに気を回すことがなかった。
「あまりに散らかっているので、掃除をしてたんです」
「す、するとさっき、トイレの掃除をやってくれたのもあんたかい?」
もうすでに、絹代はトイレを見回っていた。
「ええ、まあ」照れながら答えた。
「そうかい。そうかい」
満面の笑みを浮かべて絹代は、うなずいた。しかし、再び険しい表情になって訪ねた。
「しかし、若いもんがこんな昼間っから、仕事にも行かずにどうしたんだね」
言っていいものかどうか一瞬迷った。
しかし勇太は、思い切って今までのいきさつを話した。
大学時代に遊びほうけたこと、いざ就職しようと思ったらバブルの崩壊で、超就職氷河期が来て、就職できなかったこと、フリーターや、派遣社員をしながら、就職をしようとしても、なかなか見つからなくて、気づいたらこの年になってしまったこと。
結婚したいけど、仕事が安定していないので、先日彼女にも愛想をつかされたこと。ワーキングプアになってしまって、とうとう最後の仕事もクビになって、途方にくれている時、新聞記事を見て、一ノ瀬を訪ねたこと。
そして相談に行ったら、洗剤の販売をやらされたこと。始めたのはいいけれど、全然売れなくて、困ってしまったこと。
再度訪ねた一ノ瀬のオフィスで見つけた言葉、
「そうじはこころのそうじである。こころをきれいにすれば道は開ける」が、心に沁みて、掃除を始めたこと。
そして掃除をしているうちに、いかに今まで自分が、自己本位の生き方をしてきたかということに気づいたことなど・・・。
話している間、絹代は、じっと聞いていてくれた。よく見ると絹代は涙ぐんでいた。その姿は、田舎にいる母親を彷彿とさせた。
「若いのに、苦労したんだねえ」
そう言われると自分でも込み上げるものがあった。
「大事なことに気づいたんだね。これからはきっとよくなるよ」
とまで、絹代は言ってくれた。
ひとしきり話を聞いてくれたので、すっきりしたところで、
「大家さん、これまだ片付いてないから、続けるよ」と、掃除を始めた勇太。
その働いている後姿に、絹代は言った。
「よし、その洗剤買ってやるよ!」
勇太は振り向いた。
「えっ、今なんておっしゃいました?」
「その洗剤買ってやるって」
一瞬、耳を疑った勇太。
「ほ、ほんとうですか?」
「うん、買ってやる。買ってやる」
「えっ、嬉しい!ありがとうございます。ありがとうございます」
勇太は、あまりの嬉しさに、感謝の気持ちが体中から込み上げてきた。絹代がまるで、やさしい観音様かマリア様のように見えてきた。今まで苦労してきたばかりだから、喜びもひとしおだ。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
もう勇太は、涙でぐしゃぐしゃになった。
「よかった。よかった。あんたほんとうに頑張ったね」
絹代は、勇太の背中をさすりながら一緒になって喜んだ。
相手と心がつながった瞬間だった。
「じゃあ、これをかたづけて大家さんのところへお届けします」
感動の余韻があまりに強いので、ほとんど涙声であった」
「いいよ。いいよ。1時間くらいしたらあんたの部屋に取りに行くから」
絹代はその場を去って行った。
「あ~、嬉しいな。物が売れるっていうことは、こういうことなんだ」
と、悟った瞬間だった。
急いで、ゴミ置き場を片付けた。しかし今まで以上に心を込めてきれいにした。きれいになると、本当に心まできれいになるようだ。
「そうじはこころのそうじである。こころをきれいにすれば道は開ける」
この言葉の重みを改めて、思い知らされたのである。
部屋に帰ると、ほどなくして絹代が訪ねて来てくれた。
それだけではない。何と5、6人の主婦達を連れて来てくれているではないか。
そして次々に、洗剤を買ってくれたのである。人によっては、2本3本とまとめて買ってくれる人もいた。絹代も3本買ってくれた。
2ダースがあっと言う間になくなってしまった。
最後の人が買ってくれた時、勇太は言った。
「今日は、洗剤を買って下さって本当にありがとうございます」深々と頭を下げた。
すると拍手が巻き起こった。
「兄ちゃん、頑張れや」
「まだまだ若いんやから、大丈夫だ」
「お嫁さんも、紹介するで~」
「まだ、今日来ていない人にも紹介しておくから、頑張ってや」
絹代が、近所の主婦達に、話しておいてくれたのである。ありがたいものである。
勇太は、涙ながらに言った。
「どうも、ありがとうございます。買っていただいたお礼に、皆様のご自宅で、掃除のお手伝いができるところがあったら言って下さい。喜んでお手伝いします。もちろんタダです」
「えっ、いいの?私、足が悪いから、ちょっとお風呂場の掃除手伝ってもらえるかしら」
一人の主婦が申し出た。絹代と同年代だった。
絹代の3軒向こうに住んでおり、山内和代と言った。
「はい。ちょっと支度をしてすぐ行きます」
今までの勇太とは考えられない。気持ちのこもった返事であった。
みんな帰った後、とてもすがすがしい気持ちになった。
30分ほどして、山内和代の家を訪ねた。自転車で5、6分のところにある。
そしてお風呂の掃除を手伝った。それこそ、心を込めてやったのである。
もちろんオールマイティの威力もすごかった。蛇口も鏡もバスタブもピカピカになった。
終わると、和代は、お茶とお菓子を用意しておいてくれた。
「まあまあ、本当にきれいになったね。ごくろうさん」
「そうですね。目地もカビていましたからね」
「まあ、お茶でも飲んで行きなさい」
「はい、すみません」
掃除の後のお茶は、ひときわおいしかった」
しばらくして和代が言った。
「あんたラッキーだね。絹代さんに認められて」
「えっ、どういうことですか?」
「うん。あの人、すごい人なんだよ」
「へ~、そうなんですか?」
「若い時に、ご主人に先立たれたんだけど、女手一つで3人の子供を立派に育てたんだ。それだけでなく、自分で商売を始めて、いくつもの事業を成功してきた人なんだよ。あんたの住んでいるアパート以外に、マンションを他に5つも持っているんだ」
「それは、すごい方なんですね」
「面倒見もよくてね。町内会の役員や、いろんな役職もこなしているよ」
「・・・」勇太は、絶句した。
自分一人の人生ですら、もてあましていた勇太にとっては、衝撃であった。
「あの人のことを悪くいう人はいないよ。だからあの人のお眼鏡にかなったら、もう太鼓判を押されたようなもんだ。だからあんたは本当についてるよ」
「そ、そういうことですね」
改めて、今まで考えたこともない。ご縁の大切さを実感した。
「ところで大家さんのどんなところがすごいんですか?」
なぜか、絹代のことに興味が湧いてきた。
「そうだね。まず、いつも笑顔でにこにこしている。あいさつも元気で、必ず絹代さんから先にしてくれる。そして話すことよりじっくり人の話を聞くんだ。そうだ、そうだ、これがすごいところだけど、絶対、愚痴と悪口は言わないね。そしていつも『私はついてる』『運がいい』と言っているんだ。
「へ~、そうなんですか?」
「彼女といると、いつも勇気づけてくれるし、元気になるんだ」
「そんなふうになれたらいいですね」と言いながら、心の中ではあることを思い出そうとしていた。
「笑顔・・・あいさつ・・・話すより聞く・・・愚痴と悪口を言わない・・・いつも、ついてるって言っている・・・あれ?どこかで聞いたことがあるな・・・」
しかし、思い出せない。一息入れて帰ろうとすると和代は、お菓子を持たせてくれた。とても喜んでくれたことが嬉しい。
自転車に乗っての帰り道、とてもすがすがしい気持ちだった。
と、その時だった。「そうだ!あの時の紙だ!」ふっと思い出した。
急いで帰宅すると机の中から、封筒を取りだした。
「あった。あった」
「魔法の原石が輝く5ヶ条」
1、いつも笑顔でにこにこと
2、あいさつ元気にこちらから
3、話すことより、まず聞こう
4、愚痴と悪口、絶対禁物
5、常に唱えよ、私はついてる
「これだ。これだ」
改めて見ると、これはすごいと思った。確かに当たり前のことを言っているが、その当たり前のことが、自分は全くできていないことを思い知らされた。
「よ~し、これを机の前に貼っておこう!」
勇太はさっそく、その紙を貼り出した。
さすが一ノ瀬さんだな。ノ瀬の親心に感じ入った。
翌日からは、この「魔法の原石が輝く5ヶ条」をモットーにした。
明るい気持ちで、洗剤を買って下さった方々の、台所、トイレ、風呂場、あるいは窓などを、一軒一軒訪ねて、掃除を手伝った。つまり洗剤を売りっぱなしにするのではなく、アフターフォローを行ったのである。
するとどうだろう、次々と、お客さんがお客さんを紹介してくれるのである。頼んだ訳でもないのに・・・。
信頼関係ができると、紹介から紹介へとつながっていく。
このことを実感した勇太であった。
その上、洗剤を買ってくれたお客さんから、感謝されるのである。
喜んでもらって、感謝されて、そして人も紹介してくれる。まさかこんな素晴らしい世界があるとは思わなかった。新しいご縁が次から次へと広がるのである。
とうとう一ノ瀬との約束の日を数日残して、全部在庫が売れてしまった。
そればかりではない、今まで播いたチラシを見たお客からも、注文の電話が入り始めた。好循環が起き始めたのだ。
「これはいけない。さっそく注文しないと商品が足りないぞ」
そう思った勇太は、一ノ瀬に会うことにした。
できれば明日。ただし、一ノ瀬を驚かせたいと思ったので、受付の女性には、明日午前中に行きたいから、アポが取れるかどうかだけ確認した。
オーケーだった。明日が待ち遠しい夜だった。
続く・・・