親守歌が聞こえる

私が中学三年生で、高校受験を間近にひかえた寒い冬のことであった。

 

私は中学二年生の頃から、先生の勧めもあり、他の二人の友人と共に

天草を離れ、熊本市内の高校をめざして頑張っていた。

父母も特に反対しなかったため、当然、行かせてもらえるものと考えて

いたのである。

 

しかし、市内の高校に行くことになれば、下宿が必要で、そのために要する

費用は大変なものであった。

八人の子どもをかかえた“五反百姓”のわが家には、とうていそのような

余裕などなかったのである。

 

正月も近まったある寒い夜、

私は父に呼ばれて、囲炉裏の端に座らされた。

私の心は期待でおどっていた。

 

母も父の横に座って、私をじっと見つめていた。

そして、父が言ったのである。

「熊本はあきらめて、天草の高校に行ってくれ」

私は驚き、「なんでや」と父にむかって、大声で叫んでいた。

 

私は泣きながら、父のかいしょうのなさを何回も何回も大声でののしった。

 

日頃厳しい父もその時は目をつぶったまま、無言で何かをかみしめて

いるようであった。

 

母は何かを頼むような目で私をじっと見つめ、その目には涙が光っていた。

しかし、私は消えかけた囲炉裏の火を見つめながら、父母をののしり続けた

のであった。

 

その夜から、私はぜんぜん勉強せず、家族にも口を聞かなくなった。

 

そのため、家の中は毎日、何となく重苦しい雰囲気が続いていた。

 

母は何やかやと用件を作って、私のところへやって来て、話しかけるのであった。

 

しかし、私はそんな母を徹底的に無視し続けたのであった。

そして、年が明けて元旦となった。

 

私の家では、毎年元旦の朝には、家族全員がそろって、初詣に行くことになってい

た。

元旦の朝、母は何回も私のところへやって来て、一緒にくるように必死でたのんだ

のである。しかし、私はそんな母を無視しふとんをかぶったまま寝ていたのである。

それで母はとうとうあきらめて、出て行ったのである。

 

ふと気がつくと、枕元に五,六枚の年賀状が置いてあった。

 

私はふとんの中で、何気なくそれを手にし、たいした感情もなく、一枚ずつそれを

めくっていった。

 

それはほとんど同じクラスの友達からのもので、「今年も頑張ろう」「今年もよろし

く」

という内容のものであった。

しかし、最後の一枚を読んで私は驚いた。

 

それは年賀状らしくない長々しいものであり、エンピツ書きで、ところどころなめた

らしい濃い部分が残り、カタカナまじりで書かれていた。

 

差出人の名前はなかったが、私にはそれが同じ家に住む母からのものだということ

はすぐにわかった。

「お前に明けましておめでとうというのは、本当につらいです。

でも母ちゃんは、お前が元旦に皆の前で笑いながら、おめでとうと言ってくれる夢を

何回も見ました。

母ちゃんは、小さい頃お前が泣き出すと、子守唄をうたって泣きやませました。

でも、今はもうお前にうたってやる子守唄もないので、本当に困っています。

今度はお前が母ちゃんに、親守歌をうたってほしい」

十四歳の私は、元旦のふとんの中で、声をあげて泣いた。

そして、泣きながら、母にあやまり続けたのであった。

 

それは反抗期の私に対する母の、心からの子守唄だったのである。

そして、この年賀状こそ、まさに母の心の匂いであり、心の風景だったのである。

 

私はこの母の子守唄のおかげで立ち直り、地元の高校に進学し、その後、大学へも

進学した。

 

(「こころの風景  親守歌が聞こえる」荒木忠夫著 より抜粋)

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